デッド・オア・牛糞

ジョイント・アレルギー

統一意識論

全ての意識は同一でありこの世の全ての生物は自分であると気づいてしまったので三つの論に分けて段階的な説明を記したいと思います

 

「電子は原子核の周りを回っている」

中学校で皆こう習ったはずである、私も「そういうものなんだ」と思って最近まで生きてきた、しかし教科書に載っていた原子核の周りを電子がくるくる回っているあのモデルは正確では無いらしいのだ

どうやら量子力学では原子核の周りの電子の正確な所在を知る事はできず分かっているデータをシュレディンガー方程式に当てはめ計算することでようやく"どこどこに何%の確率で存在している"といった情報しか得られないらしい

つまり、最新の物理学では電子は原子核の周り全てに確率的に偏在しているということである。これは電子雲といい最新の原子モデルに採用されている考え方で電子が存在している確率が高いところ程濃く表される

てっきり原子核と電子は地球と月の関係のようにボールの周りをボールが回っていると思っていた私はこの話を聞いて衝撃を受けた、と同時に「「確率的に偏在しているのは電子だけではないのではないか?」」と思ったのだ

私の考えを説明するにはもう一つ、並行宇宙論マルチバース論)というものを紹介する必要がある。

並行宇宙論というものは私たちが住んでいるこの宇宙以外に無数の宇宙が存在しているという突飛な理論だ、しかしこの理論は決してSF作家の妄言などではなく最新の物理学による学術的根拠に基づき日々大真面目に議論されている理論である

この理論が事実であるならば我々はこの無限に存在する宇宙に無限に我々のコピーが存在していると結論づけても何も不思議ではないのだ、これが「パラレルワールド」である

 

そしてここからが私の持論であるが、まず第一の持論が「宇宙が無数に存在していると仮定するときその無数の宇宙は我々の宇宙に確率的に重なり合っていて我々の意識が自分の行動を観測した時に意識が分岐し、それぞれの宇宙に収束するのではないか」である

例えば、朝目が覚めてベッドから降りるとき左足から降りるか右足から降りるかで二つの宇宙が存在している

実際には、”両足で降りる”や”左足のつま先から降りる”、”右足のかかとから降りる”など例を挙げるときりがないほど無数の宇宙が存在しているのだが分かりやすくするために”左足”と”右足”の二パターンのみとするとそこには”左足宇宙50%”と”右足宇宙50%”のように宇宙が確率的に複数存在しているのだ、そして実際に右足でベッドから降りたとき、自分の意識は”右足宇宙”を選択し収束する

ここで一つ問題が出てくる、それは「ベッドから降りる前に存在していた左足宇宙はどうなっちゃったの???」である。この問いに対する私の回答は「依然として存在し続けている」だ

私の考えとしては「右足宇宙を選択した私と同時に左足宇宙を選択した私も存在する」のだ、つまり「意識が選択によって分岐した」ということだ。てことは、今その部屋には”自分”が2人存在することになる

話はそれだけでは終わらない「人生は選択の連続だ」という言葉があるように人間が行動するうえで選択は無数に存在している

”どちらの手でドアを開けようか”、”駅まで歩こうか自転車を使おうか”、”何時の電車に乗ろうか”、”何号車に乗ろうか”等無限にも思える選択のそれぞれで意識が分岐し、それぞれの宇宙と自分が確率的に偏在していたら?

そう、この世のすべての空間に自分は確率的に偏在していることになるのだ

 

そして次に第二の持論だ「分岐宇宙は瞬間毎に誕生と消滅を繰り返しているが、意識はすべて肉体の死と共に他宇宙に回帰する」である

これを証明するにはまず分岐宇宙のリスクについて説明しなければならない、我々が瞬間毎に分岐する宇宙を旅しているとすると、そこら中に破滅のスイッチが埋まっていることになるのだ

バタフライエフェクト」という言葉をご存知だろうか、これは”遠くのちょうちょの羽の羽ばたきがさらに遠くの土地でハリケーンになって災害を起こすかもしれない”といった小さなきっかけが段階的に大きな事態になり得るといったことの例えである

つまりは無限に分岐する宇宙のなかには近いうちに破滅してしまう宇宙も無限に存在しているということだ、あなたがベッドを左足から降りた翌日に隕石が降ってきて死んでしまうかもしれないわけである

しかし、我々はお空から隕石が降ってきて死んでしまったことなど一度もない、「人生はお空から隕石が落ちてきて死ぬスイッチの連続である」にもかかわらず、だ

これはおかしいので、おそらく我々は一度も死んでいないのではなく毎秒死にまくっているのではないのだろうか、毎秒隕石に追突されまくってその度に肉体に付随する記憶は消滅し意識だけが分岐宇宙間をジャンプしてまだ機能している肉体に回帰するのだ

f:id:konoyo-no-sinri:20180707053404j:plainこういうことです

つまりは私の理論が正しいのであれば死を恐れる必要はなくなるということだ、なぜならば我々は毎秒死にまくっているからだ

しかし「それでも寿命が来たら終わっちゃうでしょ!」という声が聞こえてきそうだがこの寿命問題も次の持論で解決する

 

第三の持論は「肉体はあくまで意識の入れ物に過ぎず個々の入れ物に差異はない」である

目の前にプラスチック製のコップA,Bとガラス製のコップD,Cがあると想像してほしい

ではまずはプラスチック製のコップAに水を注ごう 今Aには水が注がれた状態だ、このAの水を同じプラスチック製のコップBに注ぎ直すことはAのコップをBに向かって傾けてやれば簡単だ

ではガラス製のコップC,Dに水を移すことはできるだろうか?答えは「できる」だ

素材が異なったところで水を移し替える作業に何も支障はない

私は肉体と意識の関係もこのコップと水の関係と同じではないかと思うのだ

コップが肉体で、水が意識である

そうつまり、「コップが壊れたならば他のコップに水を移し替えれば良い、コップが古くなって朽ちてしまったならば新しいコップに移し替えれば良い、プラスチック製のコップが全部壊れてしまったならばガラス製のコップに移し替えれば良い」ということである

意識というものは肉体の年齢、素材、種類などに左右されず自由に肉体間をジャンプできるのだ

記憶は殆どの場合肉体に付随するので(コップの底にメモリーカードが入っているようなもの)引き継げないが意識だけは分岐宇宙の肉体間を飛び回っているということになる

 

ようやくここまでで私の三つの持論を紹介し終わったのでおさらいすると

1.「宇宙が無数に存在していると仮定するときその無数の宇宙は我々の宇宙に確率的に重なり合っていて我々の意識が自分の行動を観測した時に意識が分岐し、それぞれの宇宙に収束するのではないか」

 2.「分岐宇宙は瞬間毎に誕生と消滅を繰り返しているが、意識はすべて肉体の死と共に他宇宙に回帰する」

3.「肉体はあくまで意識の入れ物に過ぎず個々の入れ物に差異はない」

さて、この三つの持論からどう最初に述べた結論を導くかというと

まず、1の論によれば個々の意識は無限の分岐と収束を繰り返しているが「始まりの一点と終わりの一点」が存在しているはずであることがわかる。しかし、2の論により意識の消滅は有り得ない、そこで3の論により肉体の完全消滅によって他の肉体に意識が移り変わるのだ。これが所謂「輪廻転生」の正体である「始まりの一点と終わりの一点」は”メビウスの輪”によって繋がっていたのである

f:id:konoyo-no-sinri:20180707211448j:plainこういうことです

 

説明はここで終わりです。

つまりは「全ての他人は自分の分岐意識であり、それは最初の宇宙誕生(あるいは意識の誕生)から脈々と続く意識の胎動である」というのが私が出した結論です

大意識すべてが自分であり他人なのです。